2021-08-31(勉強について①)

 

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・本当に「簿記」で良いのか?という思いがまた生じてきた。試験勉強が面倒くさすぎる。受験生たちはどういうモチベーションで試験勉強をやってるのか不明すぎる。

ツイッターでみた意見。定型に当てはめて訓練する。それを繰り返せば点が増える。それが楽しくなってくる。これが基本か。「それっぽいところをツギハギして点数を得るマシーン」という言葉もあり(中学受験を評して)。面白い。

・新しい知識を学ぶということについての面白さは、大いに理解できる。そういう意味での知的好奇心はある。ただ「試験」というゲームがつまらなすぎて、どうにもならない。
この試験とやらは、本当に知識の定着をテストできているのか。ここでテストされる知識とは「手続き記憶の再生テスト」に近い気がする。たとえば、機械をこういう順番で動かせば、こういう挙動をする、というシステムについての知識。
このタイプの知識は、車の運転とはまた異なっており、難しい。実際に身体を動かすわけではないからか。あるいは、車の運転テスト自体は、それほど難しくないということなのか。たしかに車の運転の困難さは、自動車学校の外に出てからの方が、大いに感じるだろう。

・①実際に身体を動かさない、②手続き記憶の再生をする、というテスト。いわゆる大学受験の数学にも同様の感じを抱いている。だからこそ、自分にもできるかもな~という謎の自信が芽生えていたのだが、簿記の勉強ごときで挫折していたら、やはり理系科目の壁は厚いということになりそうではある。
では、手続き記憶の再生ではないテスト、たとえば司法書士の試験などには適応できるのだろうか。もしかすると、そちらの方がマシなのかもしれない。また、弁護士試験における論文式など、そちらの方が得意なのだろうか(やってないからわからん)。法学のほうが「掘り下げる」ところはたくさんあり(法哲学倫理学と繋がる。あんまり好きではないが……)、モチベーションは保てるのかもしれない。

・「掘り下げる」というモチベーションならば、むしろ弁理士あたりが最も興味関心とマッチしてはいる。

司法書士試験などの、正答を選ぶ式のテストは、どのような知識をテストしているのか。センター試験なども、同様のスタイルであろう。
解き方としては、消去法になりやすい。つまり「ある文章が、あるルールにおいて正しいか誤りかを判定する」テストと言えそうだ。そのためには、ルールに関する体系的な知識が必要になる。このとき「ルールの根拠を学ぶ必要がない」点には注意すべきかもしれない。また「ルール同士の有機的なかかわり合い」についても学ばなくて良い場合も多い。
「ある自動車が赤信号を通過した。この自動車の行動は違法である。正か誤か」。この問題については、「赤信号を自動車が通過してはならない」という知識があれば答えられる。すなわち、根拠となる法律を正確に引用して答える必要はない。ただし、例外についても学ばないといけないだろう(上記の例では、救急車など)。例外が正答の鍵になったりもする(いわゆる引っ掛け問題)。

・この「どうして自分は試験というシステムに適応できないのか」という問いに対して考える方が、面白い。こうした試験は日本にはほとんどない(哲学科や教育学科、心理学科の試験ではありえる)。
この、あくまでも自分のための思考をお金に替える方法もまた、ほとんどない。

・高学歴の哲学者や思想家が、自身の受験勉強については沈黙する傾向、けっこう面白いのではないか。彼らの自伝的語りにおいて、受験勉強の部分はなぜかボカされる。たしかに、自伝という物語において受験勉強ほど平坦なものはないし、自身の成功とも呼べるような体験を多く語ってしまうと、自伝のバランスを崩すおそれもある。

・ということで少し調べた。
千葉。英単語をおぼえるのはポケモンを集めるようで面白い、らしい。ノートに書きまくって勉強するしかない、とのこと。手続き知識のテストというテーマと繋がる。受験勉強と「筋トレ」のアナロジー?「勉強することは、変身へダイブすること」。たしかに肉体改造としての受験、というのはあるだろう。もちろん「クソゲー」とも言っている。
東。偏差値だけを信じて勉強し続けた、そのため画一的な受験制度を批判しきれない、とのこと。
このように、彼らにとっても、受験というのは苦痛の経験としてあるようだ。彼らの自伝的語りに受験が含まれないのは、あまりにも平坦かつ苦痛だったからかもしれない。
牢獄での経験が、苦痛であっても「語り」には組み込まれない苦痛に満ちている、という僕の妄想に繋がる。あと、そういう書き物を求めない編集や出版業界のためでもあるかもしれない。
あとは単純に、受験勉強については忘れた、というパターンもあるようだ。僕も正直それほど覚えていない。

・考えてみれば、音楽や美術の受験においても、普通の人間にとっては、苦痛の時間は避けられないように思える。たとえばデッサンの試験はあまりにも単純だが、試験としては容易に成立しうる。その勉強はまさに平坦だからこそ苦痛だろう。
しかし、こうした芸術科目に関しては、一定数の「天才」がおり、彼らにとって受験は全く恐るに足りないものであろう。彼らの(努力や忍耐ではない)自力の部分で、十分に試験を突破しうるかもしれない。

・同様のことが、受験勉強についても言えるのかもしれない。一定数「受験勉強そのものに面白さを見いだす」人々がおり、そのタイプの天才が東大などに進学していく。おそらく、そのタイプの人物は数としては多くはない。ほとんどの東大合格者が、受験勉強にトラウマ的感情を持っている(上記の思想家のように)。

・lw氏などは、受験勉強を完全に対人ゲーと考えており、その合法的に人を殺せる、という性質に惹かれていたようだ。要するに自己研鑽/育成ゲームというよりは、点数を稼ぐことで相手を倒すゲームと言えるだろうか。考えたこともなかった。
試験とは、ある明確な(偶然性を剥ぎ取った)競争社会のなかで、相手を倒すというゲームとして考えることもできよう。

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・今回はここまで。続きます(たぶん
)。