2021-08-25(「仕事」についてのメモ)

 

・仕事で睡眠時間がどうしても少ないこと、改善できる見込みないな。あると思ってた自分に驚きかもしれない。というか認めてしまうと、社会からの脱落可能性を暗に認めることになるから、あえて踏み込まなかったのかもしれない。

・「やりたいことをやりきるまで寝たくない」という気持ちもある。ただそれよりも、「仕事というもののために寝るということが許せない」という気持ちが強い。仕事に自分の生活を合わせたくないという気持ち。

・むしろこれから一生、寝不足状態は折り込み済みで働くことになるだろう。「自分の生活は仕事に搾取されず、強く自律(抵抗)しているのだ」という自己満足を胸にやっていくしかないのか。

・こんな小さな抵抗はちょっと虚しいし、健康には間違いなく良くない。そして、ほんらい時間を有意義に使えるはずの休日に、多く寝ることになってしまうのも許せない。言うまでもなく、仕事をやめるか、生活を搾取されることを厭わない仕事に就くしかないのだろう。結局、前者になったわけだが。
(むろん、不健康になって死ぬ、という選択肢もあるが、僕はできるだけ不健康になりたくないので、却下している。希死念慮も特にない。この場合、逆説的ながら、死に魅せられている人のほうが、よく働くということが考えられる。)

・それか、そもそもそれほど無理なく起きることのできる時間帯にできる仕事に就く、というのもアリだ。今やっているバイトは実家の仕事ということもあり、自由度がかなり高い(ただ、こっちの都合を押し付けたりとかはしていない)。ここ数年は、午後から活動、というのが僕の生活リズムには合っている。

・「早起きにいつか慣れるだろう」という楽観視は全く当たらなかった。結局、仕事をはじめてから終わるまで、午前中に起きることはかなり苦痛であり、その苦痛は基本的には和らぐことはなかった。遅刻したらヤバイというプレッシャーもあり、不可能ごとを毎日やってる気がして、非常に不快だった。今でもこの類いの夢をみるのは、このプレッシャーによる軽いトラウマなのだろう。想像しただけで不安になる。

・寝起きは悪い方ではない。むしろ寝に入ることの苦手さがすごい。そのことは、すでにこのメモブログで書いた。

・というわけで、持続可能性のある仕事条件として、時間の使い方が自由な仕事が入ってくるだろう。あるいは、午後からはじまる仕事。

・考えれば考えるほど、自分が続けられる仕事というのは、自分が思うよりもかなり少ないのだな、と再確認する。この確認作業は、自分の持っている完璧な自己イメージを傷付けるものであり、整理や修復の時間を要するだろう。

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・仕事するときに求められる姿勢(気持ちの持ちよう)、責任感などだと思っていたが、たぶん違う。真に重要なのは「鈍感さ」かもしれない。まだ言い方はわからないが、責任を放棄するというよりは、責任を意識しないということ。責任を心理的ストレスに感じない(変換しない)ということ。

・ルールを守ることや、感情労働に伴う心理的ストレスも、鈍感であれば平気だろう。つなり、ストレス要因をストレスに変換できない(しない)人が、仕事に打ち込める(停滞できる)人だろう。

・ストレス要因は無限に考えうる。たとえばすでに書いたように、朝起きるということ。僕からすれば、朝起きれるというそのことが、社会や世界に適応できる何よりの証拠であると思える。
(別に、グロッキーな自分(朝からグロッキーであること)を受け入れてくれるなら、ある程度仕事に行っても良いと思える。しかし社会はそれほど甘くない。誰しもタダ乗り(フリーライダー)を許さないからだ。その心理は僕にもあるが、遅刻してきた人には大いに寛容だと思う(自分をみているようだから)。)

・ただし、こうしたストレスを金銭に変換している、と捉えることもできる。ストレス要因から生成されるストレスを、金銭に交換するという感覚。

・この比喩のマズイところは、金銭を受け取ったところでストレスはなくならないということだ(ストレスは蓄積される)。

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・もっと良いのは、心理的体力があること(タフであること)。仮に心理的ストレスを感じたとしても、マイナスや許容限界にならず、回復できるほどの余裕があること。
(僕としては、心理的体力が一回マイナスになった過去があるだけに、少しトラウマ的に感じざるを得ない。)

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