2021-08-10
▼2021-08-09
【8/10追記。
「何を振られても答えないといけない」という強迫観念。最も「強迫」性から逃れていないといけない?大学でも、こういったことは起こる。知識量や学者としての力量で差は発生するが、それをどう権力と結びつけないようにするかは難しいところだろう。僕はそういうところに敏感で、権力愛好的に従ってしまった部分があるのは、非常に良くなかった。
とはいえ、色々と難しい。】
・「Aという作品について何かを言うにはAを鑑賞しなければならない」という格率があるため、興味のないコンテンツについては沈黙できるのが僕の良いところ(100ワニ、開会式/閉会式など)
・少し前までは「何かを言わないといけない気がするので嫌なものも見ないといけない」という欲望?があったが、あまりにも不快すぎるので消え去った
・要するに「ある共同体にたいして何か資するものがあれば良い(=話題に混ざりたい)」などと考えていたが、共同体がなくなり、かつ「それについては知りません」と堂々と言えるようになったので要らなくなった
・実は?大学院のほうがこういった圧力は強かった。コンテンツを見ていないと議論そのものができないので。古典ならまだしも、最新のものにアンテナを張ることは、僕にはそもそも向いていないとわかった
・知らないことに対して「知らないです」という言動は、専門家の恥、知識人の恥なのだと思う
あと政治的にはかなり微妙な態度であろう:政治的無関心を地で行く態度である。ただ政治に関しては、相対的真理でさえ追及しにくく、結局は宗教的運動に行き着くような気がして、どうも動きがたい
・政治学的に関心があるのは、政治的無関心に関する研究、政治心理学、財政学、社会運動やロビー活動の歴史と実践、といった分野
ツイッターで政治に絡めた発言をすることは、言語ゲームをより複雑にする(悪化させる)ため、沈黙を貫く(まあ、ホントはどうでも良いのかも知れんが)
・今思えば、大学院の同期は基本的になに聞かれても「興味ないんで知りません」と言っていたし、めちゃめちゃメンタル強かったんやなと思う
僕は小心者でエエカッコしいだったので、色々ごまかしていた。無知に関する理論的武装を持っていなかったことにもよる
・少なくとも人文系のアカデミアで生きるということは、様々な意味での学際性が求められ、僕はそこには適応できなかったということである
まあでも、悪しき学際性もあるんじゃないかとは思っておるが、ここら辺は難しい
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・非常にボーッとした1日(今のところ何もしておらず、わりかし寝ている)。「焦りがない状態」と「物事から逃げ出し無為な状態」ってどう区別付けるんだろう、とふと思う。ひとつの状態の裏表なのかもしれないけど……
・「焦り」と「自己否定」を伸びやかにかわした結果、なんもしない引きこもりが生まれるの非常に面白いな。まあ、自分のなかではけっこう珍しい状態だし、明日は外に出るし、今日は自分のタイミングでのんびりするか
・楽しいというか無為だね、なんもない感じ。カフェインの離脱症状が収まったからスッキリしてるというのもあると思う。じきに焦りはじめるんじゃなかろうか
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▼2021-08-06
【8/9追記。
もし僕のストレス耐性がもっと高かったら、何も問題は発生してないのかもしれない。急に死んだりしてたかもだけど。体力はあるんだけどな~。精神が持たないよ、どちらかと言えば。
最近、色んなことへの関心の持ちようをコントロールしたく(これも強迫症的妄想であるが)、虚無になってるのだが、これはこれで真性の鬱に近付いてる感じもして微妙。まーでも、ところ変われば気分も変わるので(たとえば僕の精神的悩みは巨額のお金ですべて解決する)、鬱にはならないんだろな、とも思う。】
・ウツだ~なんだと言ってるけど、モノホンのウツの内で当てはまってるの「レマネンツ(自分で立てた高い目標に潰される)」くらいで、ぱやちの先生のほうがよっぽど鬱だよな~と思う。特に役割にすがり付こうとする感じ、そして働き者であること
・ただ、役割にすがり付く感じは自分にもないではない。それは「天職」願望?みたいな感じで現れている気がする(=仮にこんな働き方ができたらおれはパーペキに働けるゼ!みたいな妄想)。でも、ぱやちの先生のように血反吐吐いても責任もって仕事するとかでなく、その前に病んで離脱する
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▼2021-07-28
【8/9追記。トークについて。トーク以外にも母親は、こちらの出鼻を挫くような言動を良くする(外出ようとするとどこ行くの?ときく、など)。こういうパターン、強迫神経症の例にも出てきて、ちょっと笑ってしまった。以下、中井久夫『世に棲む患者』より。
「一般にちょっと自由な行動をしようとすると[……]出鼻をくじく家族が強迫症性家族に多い」(205頁)。
強迫症者の家庭を訪問すると「こちらの自然な動きがひんぱんに出鼻をくじかれ」、「なかなか席を立てないので困る」(203頁)。
以下のような記述もある。強迫症は家族内で伝染しやすく、「お互いに意地悪をしあう、それもこっそりとサブリミナルな意地悪をしあうということにはじまり、相手の出鼻をくじくような批評をしあうことを経由して、死闘に近づくこともある」(204-205頁)。
マジで自戒だな~と思う。
父方も母方も、クリティカルな場面は多く、こうなるのは必然だった気もする。ただどちらも特に病む人はおらず、正常な人生ラインに乗ってないのは僕くらいである。……なんでやねん!】
・全然関係ないけど、僕が口下手になった理由、母親のせいが5割りくらいあるだろうな。最近思ったけど、母親は人の話をきくのが下手すぎるときがある。真剣な話はきいてくれるものの、アホみたいにインタラプトするし、そもそも話題も脱線的過ぎるのよね
・だから自分のしたい話を母親にするときは、インタラプトしてきた言葉よりもデカイ声で話し続けるしかないんだよね(最近意識化できた)。これ、思い返してみれば父親がやってる技術だった。父親と母親が話す声、アホみたいにデカイ
・これは前も呟いたけど、母親は僕の言葉を代弁してしまうことも多い。父親の問いとかに詰まっていると(脳の回転がカスorどもりを引っ込めている)、母親が勝手に僕の言葉を引用して代弁してしまった経験、めちゃくちゃある
・父親のほうが人の話の聞き方は格段に上手い(さすが、エンジニアを外されて営業に回った男だけはある)。ただ、否定から入る癖があり(家族だけかもしれんが)、断言口調のことも多い。この特徴はある世代以上の大阪人の特徴かもしれんが
・僕は赤子の頃から静かだったらしいので、普通におとなしいのだと思うけど、それにしても家庭内での口語を奪われ過ぎた感はある。その代わりゲームやゲームの攻略本や漫画で書き言葉にはある程度強くなったのだろうが……
・だから、日常生活を切り取って話せる人を僕は尊敬する。寡黙な人がおもしろエピソードを披露するのをきくの、僕は好き。こういう嗜好がラジオや配信やVをみることに繋がってるのだろう
・僕が「トークってなに?」と考えはじめたのは配信を始めてからなので、だいぶ遅い。けっこうな人は中高生のときとか、大学デビューとかでそういうのを意識するのではなかろうか
あと変にトークが上手い人は、配信者かハガキ職人か、っていう予測ができる
・あと、時々マジでタンスにトークテーマをしまっている人たちがいて、この人たちは頭が良い(鬼のように要領が良い)ことが多い
・逆に僕はトークを回すほうが好きだし、めちゃくちゃ楽。適当に話題ふっていけば皆面白い話してくれるからね、便利な立場