2021-09-01(勉強メモ②)

 

【2021-09-01周辺のメモ】

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・「手続き記憶の再生ができない」という悩みではない。むしろ「手続き記憶の再生が定着するまでに、反復する作業が苦痛である」ことが重要だろう。同じことを何度もやり、記憶に定着させなければ、基本的な問題すら解けない。しかし、それが苦痛に感じてくる。
(逆に言えば「手続き記憶の再生ができる」という点で、ひとつめの関門はクリアしているとも解釈できる。試験勉強への道が最初から閉ざされているわけではない。)

・同じ反復ならば、ギターの練習のほうがまだ100倍マシである、という意識がある。まだ泣くほどずっとギターを弾き続けたことがないから言えるのかもしれない。あと、ギターに関しては苦手なものからはかなーり逃げ出している。たとえば、自分の演奏を録音して聴くこと、TAB譜などをみながら弾くこと(まあ覚えることになるのだが)。苦手な奏法の反復は、ギターでも嫌だろうか。

・反復作業への忌避感を緩和するにはどうすれば良いか。そもそも、反復が楽しめる状態(ゲーム)とはなにか。
最も単純な反復練習としての、漢字練習。「薔薇」という漢字をソラで書けるようになるには、形の構成を理解するだけでは不十分で、何度も書かなくてはならない。たしかに「薔薇」が書けるようになると、すこし楽しい気分にはなる。
ただし、漢字練習は「一対一対応」であり、例外はない、という原則がある。簿記で言えば、一対一対応で済むところと、そうはいかない部分が混在しており、煩わしい。

・数学の証明を反復するとき、その論理のエレガントさに高揚するかもしれない。また、美しいと感じる詩を暗唱するときもまた、ポジティブな気持ちになるだろう。
逆に、法律の条文を暗唱しても、少なくともいまの僕は、よい気持ちにはならない。もしかすると、先程の薔薇の例に似た面白さはあるかもしれないが。
その一方「長いものをおぼえる」こと自体への快感、ないわけではない(丸暗記の快楽)。たとえば、円周率をおぼえていく作業など。エルフのえるの本名を、嬉々として暗唱するくだりを想起せよ。

・小まとめ①。
□反復する対象/内容のつまらなさ(マイナスイメージ)
□長いものを丸暗記する快楽
□一対一対応でないものへの不快

・簿記の場合、丸暗記したものが数値もそのまま出る、というわけではない。ただ、パターン自体は過去問のものを繰り返していると考えて、差し支えはない。問題とその解答をセットで丸暗記してしまえば、正答率は大きく上がるだろう。
不安なのは、その労力の大変さだろうか。任意の3問を選び、それらのやり方を覚えることに不快感は抱かない。しかし、同じことを300問ぶんやると考えると、気が滅入る。この差かもしれない。

・まず最初にやるべきは、問題を細分化して、小さい問題に分け、実際は何問で構成されているか数えることか。手続き記憶の再生、という観点からすれば、問題Aは手続き①+手続き②+手続き③によって成り立つ、というふうに。
解法のここからここまでを手続き①、ここからここまでを手続き②……、というふうに分類して記憶する方法が考えられる(特に数学など)。

・「300問ぶんやらないといけない」という苦痛は、「3000語ある単語帳を全部おぼえてください」というタスクへの苦痛と似ている。すでにわかるように、どんな超人でも3000語を一気に覚えられるわけもなく、少しずつ定着させていくしかない。
たとえば、受験体験記によく出てくる「スキマ時間の活用」のように、単語帳を肌身離さず持ち歩き暗記する、という戦略はここで生きてくる。
すべての勉強を「単語帳をおぼえる」の気軽さでできれば、かなり気が楽に感じるかもしれない。

・小まとめ②。
□大きい問題を小さい問題に分解し、小さい問題数を数える
□できるだけ一対一対応のかたちにする
□「単語帳をおぼえる」気軽さに落とし込む

・どうやって単語をおぼえていたか、大学受験を思い出してみる。
最初の最初(高校1年生など)は、授業で単語テストがあり、それを粛々とこなしていたように思える。50単語くらいがひとつの範囲で、そのうち20単語くらい出る、といったものだっただろうか。とりあえず一周目はこれでOKだった(授業に合わせていれば容易に一周できた)。
二週目以降は独学でやっていった。
①英語⇒日本語を4-5回くらい心のなかで繰り返し読む。appleりんご×4-5。1-2ページ分。
②上から、英語で日本語を再生していき、再生できなかったら上からやり直す、を繰り返す(時々下からやる)。全部再生できたらその分は終わり。
③前日にやった分に関して、もう一度②をやる。
④何回かやって、それでも覚えられないやつを暗記カードにまとめて書く。暗記カードも①~③同じようにやる。
これで某DATABASE4500をやりきり、単語に関しては大きく困らなかったように記憶している。

・単語帳方式は、おぼえる対象が短いため有効である、という側面がある。
おぼえる対象が長いもの、たとえば定型文の暗記(条文、例文、お経など)、単語から辞書的意味を想起するもの、に関しても同様に考えられる。
その一方で、おぼえる対象が長いほど、とにかく書く/暗唱する、といった方法が有効になる。

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2021-08-31(勉強について①)

 

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・本当に「簿記」で良いのか?という思いがまた生じてきた。試験勉強が面倒くさすぎる。受験生たちはどういうモチベーションで試験勉強をやってるのか不明すぎる。

ツイッターでみた意見。定型に当てはめて訓練する。それを繰り返せば点が増える。それが楽しくなってくる。これが基本か。「それっぽいところをツギハギして点数を得るマシーン」という言葉もあり(中学受験を評して)。面白い。

・新しい知識を学ぶということについての面白さは、大いに理解できる。そういう意味での知的好奇心はある。ただ「試験」というゲームがつまらなすぎて、どうにもならない。
この試験とやらは、本当に知識の定着をテストできているのか。ここでテストされる知識とは「手続き記憶の再生テスト」に近い気がする。たとえば、機械をこういう順番で動かせば、こういう挙動をする、というシステムについての知識。
このタイプの知識は、車の運転とはまた異なっており、難しい。実際に身体を動かすわけではないからか。あるいは、車の運転テスト自体は、それほど難しくないということなのか。たしかに車の運転の困難さは、自動車学校の外に出てからの方が、大いに感じるだろう。

・①実際に身体を動かさない、②手続き記憶の再生をする、というテスト。いわゆる大学受験の数学にも同様の感じを抱いている。だからこそ、自分にもできるかもな~という謎の自信が芽生えていたのだが、簿記の勉強ごときで挫折していたら、やはり理系科目の壁は厚いということになりそうではある。
では、手続き記憶の再生ではないテスト、たとえば司法書士の試験などには適応できるのだろうか。もしかすると、そちらの方がマシなのかもしれない。また、弁護士試験における論文式など、そちらの方が得意なのだろうか(やってないからわからん)。法学のほうが「掘り下げる」ところはたくさんあり(法哲学倫理学と繋がる。あんまり好きではないが……)、モチベーションは保てるのかもしれない。

・「掘り下げる」というモチベーションならば、むしろ弁理士あたりが最も興味関心とマッチしてはいる。

司法書士試験などの、正答を選ぶ式のテストは、どのような知識をテストしているのか。センター試験なども、同様のスタイルであろう。
解き方としては、消去法になりやすい。つまり「ある文章が、あるルールにおいて正しいか誤りかを判定する」テストと言えそうだ。そのためには、ルールに関する体系的な知識が必要になる。このとき「ルールの根拠を学ぶ必要がない」点には注意すべきかもしれない。また「ルール同士の有機的なかかわり合い」についても学ばなくて良い場合も多い。
「ある自動車が赤信号を通過した。この自動車の行動は違法である。正か誤か」。この問題については、「赤信号を自動車が通過してはならない」という知識があれば答えられる。すなわち、根拠となる法律を正確に引用して答える必要はない。ただし、例外についても学ばないといけないだろう(上記の例では、救急車など)。例外が正答の鍵になったりもする(いわゆる引っ掛け問題)。

・この「どうして自分は試験というシステムに適応できないのか」という問いに対して考える方が、面白い。こうした試験は日本にはほとんどない(哲学科や教育学科、心理学科の試験ではありえる)。
この、あくまでも自分のための思考をお金に替える方法もまた、ほとんどない。

・高学歴の哲学者や思想家が、自身の受験勉強については沈黙する傾向、けっこう面白いのではないか。彼らの自伝的語りにおいて、受験勉強の部分はなぜかボカされる。たしかに、自伝という物語において受験勉強ほど平坦なものはないし、自身の成功とも呼べるような体験を多く語ってしまうと、自伝のバランスを崩すおそれもある。

・ということで少し調べた。
千葉。英単語をおぼえるのはポケモンを集めるようで面白い、らしい。ノートに書きまくって勉強するしかない、とのこと。手続き知識のテストというテーマと繋がる。受験勉強と「筋トレ」のアナロジー?「勉強することは、変身へダイブすること」。たしかに肉体改造としての受験、というのはあるだろう。もちろん「クソゲー」とも言っている。
東。偏差値だけを信じて勉強し続けた、そのため画一的な受験制度を批判しきれない、とのこと。
このように、彼らにとっても、受験というのは苦痛の経験としてあるようだ。彼らの自伝的語りに受験が含まれないのは、あまりにも平坦かつ苦痛だったからかもしれない。
牢獄での経験が、苦痛であっても「語り」には組み込まれない苦痛に満ちている、という僕の妄想に繋がる。あと、そういう書き物を求めない編集や出版業界のためでもあるかもしれない。
あとは単純に、受験勉強については忘れた、というパターンもあるようだ。僕も正直それほど覚えていない。

・考えてみれば、音楽や美術の受験においても、普通の人間にとっては、苦痛の時間は避けられないように思える。たとえばデッサンの試験はあまりにも単純だが、試験としては容易に成立しうる。その勉強はまさに平坦だからこそ苦痛だろう。
しかし、こうした芸術科目に関しては、一定数の「天才」がおり、彼らにとって受験は全く恐るに足りないものであろう。彼らの(努力や忍耐ではない)自力の部分で、十分に試験を突破しうるかもしれない。

・同様のことが、受験勉強についても言えるのかもしれない。一定数「受験勉強そのものに面白さを見いだす」人々がおり、そのタイプの天才が東大などに進学していく。おそらく、そのタイプの人物は数としては多くはない。ほとんどの東大合格者が、受験勉強にトラウマ的感情を持っている(上記の思想家のように)。

・lw氏などは、受験勉強を完全に対人ゲーと考えており、その合法的に人を殺せる、という性質に惹かれていたようだ。要するに自己研鑽/育成ゲームというよりは、点数を稼ぐことで相手を倒すゲームと言えるだろうか。考えたこともなかった。
試験とは、ある明確な(偶然性を剥ぎ取った)競争社会のなかで、相手を倒すというゲームとして考えることもできよう。

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・今回はここまで。続きます(たぶん
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2021-08-25(「仕事」についてのメモ)

 

・仕事で睡眠時間がどうしても少ないこと、改善できる見込みないな。あると思ってた自分に驚きかもしれない。というか認めてしまうと、社会からの脱落可能性を暗に認めることになるから、あえて踏み込まなかったのかもしれない。

・「やりたいことをやりきるまで寝たくない」という気持ちもある。ただそれよりも、「仕事というもののために寝るということが許せない」という気持ちが強い。仕事に自分の生活を合わせたくないという気持ち。

・むしろこれから一生、寝不足状態は折り込み済みで働くことになるだろう。「自分の生活は仕事に搾取されず、強く自律(抵抗)しているのだ」という自己満足を胸にやっていくしかないのか。

・こんな小さな抵抗はちょっと虚しいし、健康には間違いなく良くない。そして、ほんらい時間を有意義に使えるはずの休日に、多く寝ることになってしまうのも許せない。言うまでもなく、仕事をやめるか、生活を搾取されることを厭わない仕事に就くしかないのだろう。結局、前者になったわけだが。
(むろん、不健康になって死ぬ、という選択肢もあるが、僕はできるだけ不健康になりたくないので、却下している。希死念慮も特にない。この場合、逆説的ながら、死に魅せられている人のほうが、よく働くということが考えられる。)

・それか、そもそもそれほど無理なく起きることのできる時間帯にできる仕事に就く、というのもアリだ。今やっているバイトは実家の仕事ということもあり、自由度がかなり高い(ただ、こっちの都合を押し付けたりとかはしていない)。ここ数年は、午後から活動、というのが僕の生活リズムには合っている。

・「早起きにいつか慣れるだろう」という楽観視は全く当たらなかった。結局、仕事をはじめてから終わるまで、午前中に起きることはかなり苦痛であり、その苦痛は基本的には和らぐことはなかった。遅刻したらヤバイというプレッシャーもあり、不可能ごとを毎日やってる気がして、非常に不快だった。今でもこの類いの夢をみるのは、このプレッシャーによる軽いトラウマなのだろう。想像しただけで不安になる。

・寝起きは悪い方ではない。むしろ寝に入ることの苦手さがすごい。そのことは、すでにこのメモブログで書いた。

・というわけで、持続可能性のある仕事条件として、時間の使い方が自由な仕事が入ってくるだろう。あるいは、午後からはじまる仕事。

・考えれば考えるほど、自分が続けられる仕事というのは、自分が思うよりもかなり少ないのだな、と再確認する。この確認作業は、自分の持っている完璧な自己イメージを傷付けるものであり、整理や修復の時間を要するだろう。

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・仕事するときに求められる姿勢(気持ちの持ちよう)、責任感などだと思っていたが、たぶん違う。真に重要なのは「鈍感さ」かもしれない。まだ言い方はわからないが、責任を放棄するというよりは、責任を意識しないということ。責任を心理的ストレスに感じない(変換しない)ということ。

・ルールを守ることや、感情労働に伴う心理的ストレスも、鈍感であれば平気だろう。つなり、ストレス要因をストレスに変換できない(しない)人が、仕事に打ち込める(停滞できる)人だろう。

・ストレス要因は無限に考えうる。たとえばすでに書いたように、朝起きるということ。僕からすれば、朝起きれるというそのことが、社会や世界に適応できる何よりの証拠であると思える。
(別に、グロッキーな自分(朝からグロッキーであること)を受け入れてくれるなら、ある程度仕事に行っても良いと思える。しかし社会はそれほど甘くない。誰しもタダ乗り(フリーライダー)を許さないからだ。その心理は僕にもあるが、遅刻してきた人には大いに寛容だと思う(自分をみているようだから)。)

・ただし、こうしたストレスを金銭に変換している、と捉えることもできる。ストレス要因から生成されるストレスを、金銭に交換するという感覚。

・この比喩のマズイところは、金銭を受け取ったところでストレスはなくならないということだ(ストレスは蓄積される)。

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・もっと良いのは、心理的体力があること(タフであること)。仮に心理的ストレスを感じたとしても、マイナスや許容限界にならず、回復できるほどの余裕があること。
(僕としては、心理的体力が一回マイナスになった過去があるだけに、少しトラウマ的に感じざるを得ない。)

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2021-08-10

▼2021-08-09

【8/10追記。
「何を振られても答えないといけない」という強迫観念。最も「強迫」性から逃れていないといけない?大学でも、こういったことは起こる。知識量や学者としての力量で差は発生するが、それをどう権力と結びつけないようにするかは難しいところだろう。僕はそういうところに敏感で、権力愛好的に従ってしまった部分があるのは、非常に良くなかった。
とはいえ、色々と難しい。】

・「Aという作品について何かを言うにはAを鑑賞しなければならない」という格率があるため、興味のないコンテンツについては沈黙できるのが僕の良いところ(100ワニ、開会式/閉会式など)

・少し前までは「何かを言わないといけない気がするので嫌なものも見ないといけない」という欲望?があったが、あまりにも不快すぎるので消え去った

・要するに「ある共同体にたいして何か資するものがあれば良い(=話題に混ざりたい)」などと考えていたが、共同体がなくなり、かつ「それについては知りません」と堂々と言えるようになったので要らなくなった

・実は?大学院のほうがこういった圧力は強かった。コンテンツを見ていないと議論そのものができないので。古典ならまだしも、最新のものにアンテナを張ることは、僕にはそもそも向いていないとわかった

・知らないことに対して「知らないです」という言動は、専門家の恥、知識人の恥なのだと思う
あと政治的にはかなり微妙な態度であろう:政治的無関心を地で行く態度である。ただ政治に関しては、相対的真理でさえ追及しにくく、結局は宗教的運動に行き着くような気がして、どうも動きがたい

政治学的に関心があるのは、政治的無関心に関する研究、政治心理学、財政学、社会運動やロビー活動の歴史と実践、といった分野
ツイッターで政治に絡めた発言をすることは、言語ゲームをより複雑にする(悪化させる)ため、沈黙を貫く(まあ、ホントはどうでも良いのかも知れんが)

・今思えば、大学院の同期は基本的になに聞かれても「興味ないんで知りません」と言っていたし、めちゃめちゃメンタル強かったんやなと思う
僕は小心者でエエカッコしいだったので、色々ごまかしていた。無知に関する理論的武装を持っていなかったことにもよる

・少なくとも人文系のアカデミアで生きるということは、様々な意味での学際性が求められ、僕はそこには適応できなかったということである
まあでも、悪しき学際性もあるんじゃないかとは思っておるが、ここら辺は難しい

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・非常にボーッとした1日(今のところ何もしておらず、わりかし寝ている)。「焦りがない状態」と「物事から逃げ出し無為な状態」ってどう区別付けるんだろう、とふと思う。ひとつの状態の裏表なのかもしれないけど……

・「焦り」と「自己否定」を伸びやかにかわした結果、なんもしない引きこもりが生まれるの非常に面白いな。まあ、自分のなかではけっこう珍しい状態だし、明日は外に出るし、今日は自分のタイミングでのんびりするか

・楽しいというか無為だね、なんもない感じ。カフェインの離脱症状が収まったからスッキリしてるというのもあると思う。じきに焦りはじめるんじゃなかろうか

 

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▼2021-08-06

【8/9追記。
もし僕のストレス耐性がもっと高かったら、何も問題は発生してないのかもしれない。急に死んだりしてたかもだけど。体力はあるんだけどな~。精神が持たないよ、どちらかと言えば。
最近、色んなことへの関心の持ちようをコントロールしたく(これも強迫症的妄想であるが)、虚無になってるのだが、これはこれで真性の鬱に近付いてる感じもして微妙。まーでも、ところ変われば気分も変わるので(たとえば僕の精神的悩みは巨額のお金ですべて解決する)、鬱にはならないんだろな、とも思う。】

・ウツだ~なんだと言ってるけど、モノホンのウツの内で当てはまってるの「レマネンツ(自分で立てた高い目標に潰される)」くらいで、ぱやちの先生のほうがよっぽど鬱だよな~と思う。特に役割にすがり付こうとする感じ、そして働き者であること

・ただ、役割にすがり付く感じは自分にもないではない。それは「天職」願望?みたいな感じで現れている気がする(=仮にこんな働き方ができたらおれはパーペキに働けるゼ!みたいな妄想)。でも、ぱやちの先生のように血反吐吐いても責任もって仕事するとかでなく、その前に病んで離脱する

 

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▼2021-07-28

【8/9追記。トークについて。トーク以外にも母親は、こちらの出鼻を挫くような言動を良くする(外出ようとするとどこ行くの?ときく、など)。こういうパターン、強迫神経症の例にも出てきて、ちょっと笑ってしまった。以下、中井久夫『世に棲む患者』より。

「一般にちょっと自由な行動をしようとすると[……]出鼻をくじく家族が強迫症性家族に多い」(205頁)。
強迫症者の家庭を訪問すると「こちらの自然な動きがひんぱんに出鼻をくじかれ」、「なかなか席を立てないので困る」(203頁)。
以下のような記述もある。強迫症は家族内で伝染しやすく、「お互いに意地悪をしあう、それもこっそりとサブリミナルな意地悪をしあうということにはじまり、相手の出鼻をくじくような批評をしあうことを経由して、死闘に近づくこともある」(204-205頁)。

マジで自戒だな~と思う。
父方も母方も、クリティカルな場面は多く、こうなるのは必然だった気もする。ただどちらも特に病む人はおらず、正常な人生ラインに乗ってないのは僕くらいである。……なんでやねん!】

・全然関係ないけど、僕が口下手になった理由、母親のせいが5割りくらいあるだろうな。最近思ったけど、母親は人の話をきくのが下手すぎるときがある。真剣な話はきいてくれるものの、アホみたいにインタラプトするし、そもそも話題も脱線的過ぎるのよね

・だから自分のしたい話を母親にするときは、インタラプトしてきた言葉よりもデカイ声で話し続けるしかないんだよね(最近意識化できた)。これ、思い返してみれば父親がやってる技術だった。父親と母親が話す声、アホみたいにデカイ

・これは前も呟いたけど、母親は僕の言葉を代弁してしまうことも多い。父親の問いとかに詰まっていると(脳の回転がカスorどもりを引っ込めている)、母親が勝手に僕の言葉を引用して代弁してしまった経験、めちゃくちゃある

・父親のほうが人の話の聞き方は格段に上手い(さすが、エンジニアを外されて営業に回った男だけはある)。ただ、否定から入る癖があり(家族だけかもしれんが)、断言口調のことも多い。この特徴はある世代以上の大阪人の特徴かもしれんが

・僕は赤子の頃から静かだったらしいので、普通におとなしいのだと思うけど、それにしても家庭内での口語を奪われ過ぎた感はある。その代わりゲームやゲームの攻略本や漫画で書き言葉にはある程度強くなったのだろうが……

・だから、日常生活を切り取って話せる人を僕は尊敬する。寡黙な人がおもしろエピソードを披露するのをきくの、僕は好き。こういう嗜好がラジオや配信やVをみることに繋がってるのだろう

・僕が「トークってなに?」と考えはじめたのは配信を始めてからなので、だいぶ遅い。けっこうな人は中高生のときとか、大学デビューとかでそういうのを意識するのではなかろうか
あと変にトークが上手い人は、配信者かハガキ職人か、っていう予測ができる

・あと、時々マジでタンスにトークテーマをしまっている人たちがいて、この人たちは頭が良い(鬼のように要領が良い)ことが多い

・逆に僕はトークを回すほうが好きだし、めちゃくちゃ楽。適当に話題ふっていけば皆面白い話してくれるからね、便利な立場

ウツな文章(2021/08/01-02)

・今回のウツが割りと方向性が薄くて参っている。原因はぼんやりとわかってはいるけど。

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・直接的には、ごく単純に簿記の試験が近いというウツ。これは全然自業自得なんだけど、勉強が全然進んでおらず厳しい状態。余裕がなく、日数が縮まることに焦りが強くなってる感じがする。
とはいえこれに関してはcbt試験なのですぐに受け直せるし、それほど重要かと言われるとそうでもない。ただ、もう勉強に飽き始めてるので、やる気が続かないというのも含んだウツである。テキストを読んでまとめて覚える、という作業はわりかし好きなのだが、いかんせん問題を解くというのが好きではない。間違えるごとに謎の心理的圧迫を感じ、参ってしまう。糞だな~。むしろ、問題を間違えるほうが記憶に正しく定着するので、理屈としては正しいのだが、なんか慣れないのよな。楽しくない。

・これは前どこかで書いたかもしれないが、問題への取り組みとそのフィードバックが早いほうがおもろいし、やる気も出る。だから本当はこういう勉強に関しては、あまり独学に向いてないのかもしれない。先生などがいれば、不明点は秒で解決できる。しかし独学ならば、不明点の解決も自分で編み出さなければならない。
自分で探求する面白さはわかるからこそ、文系の大学院という場所に行ったわけだが、なぜ上記のような不明点の探求にイライラしてしまうのか。

・おそらく「そこに一切謎はなく明晰であるはずなのに、謎にみえている状態」が気持ち悪いのだろう。数学の問題についてわからないときも、同様のイライラが生じる気がする。文系の研究は本質が謎であるので、気持ち悪くならない。分かりやすく言えば答えがないから、探求に没頭できる。しかし(高校レベルの)数学の問題などは特に、答えや解法が絶対に存在するのに、それを理解できないことが苦しく感じる。自分の能力が及ばないことが悔しく、不甲斐なく感じる。
基本情報のアルゴリズムがわからなかったときも、自分の不能力を恥じるばかりで、誰かに頼ることができなかった。もしかしなくても、「迅速に誰かにきく能力」は勉強の能力に含めて良いだろう。いわゆる進学校のよさは、大体優秀な人物が友人にいて、普通に質問できることかもしれない。まあそういう環境に居たとしても、自分は率先して聞けるタイプではない気がする。

・とかいいつつ、昔はアドバイス等を積極的に求めたりできていた気がする。特に合唱をやっていたときは、向上心の塊だったので、先輩にめちゃめちゃ質問して吸収しまくっていた。どうしてそういう行動力を他の活動に敷衍できないのだろうか。マジで。

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・ウツの原因の話に戻ると、自分のなかで中心としていた行動指針のようなものが揺らいでいるために、ウツというか行動の変化が必要になっている気がする。

・今まで曲がりなりにも「書き物で食べていけたらイイナ~」と思って書き続けていた。しかし、いろんな要因がありそうは思わなくなってきた。

・重要なのは、「自分にとって書き物とは、自分に対しての楽しみ/道楽/享楽であって、他人や共同体にとってのそれではない」という、今まで隠してきた?意識が強くなってきたことであろう。
文章を書いてお金を貰うということは、誰かのために文章を書きその対価として金銭を交換するということだろう。これはもっと範囲を広げれば、学者は学術共同体のために、作家は読者のために書くのである。これは要するに、固定的な関係性と呼べる。
流動的な関係性とは、まったく偶然的なそれである。書き手自身が自分のために文章を生成しても、それに対して金銭を払う人もいる。そこには偶然的な出会いなどが含まれるうえに、計画性に含み込まれない可能性がある。しかし、安定感に欠く。要するに、書き手に金銭を払うかどうかは適当であって(対価ではないので)、どうしても「生き様」「応援」云々の形になりやすく、安定的な収入になりにくい。書いた文字数がそのまま原稿料になるわけではない。社会的貢献度も低い。
こうした思考のもと、自分は後者の道を進むことにした。あくまで自分の道楽のために書く。この文章のように、自分の精神を安定させ、のちの自分が読んで役に立つように書く。

・もちろんこれは、それ以外の文章は書いちゃいけないという禁止を意味しない。ただ、上記の発想に至ったとき、どうしても考えてしまった。たとえば、もうアカデミックな文章は書けないな、等々。しかし、あくまでそこも自由なのである。自分が書きたければ、誰かの何かのために文章を書いても良い(それが実際にできるかどうかは置いておいて)。

・ただ、こうした考えに至ったとしても、書き物で食べていく可能性はほぼゼロになったと考えるべきだろう。不安定な、いわば「変動費」としての収入は期待できるかもしれないし、その可能性は探ったほうが良いが(投げ銭機能を使いやすくする等)、安定した「固定費」として考えるべきではない。
数年考えていた、「書き物で食べていけたらイイナ~」期が終了したことで、僕は路頭に迷っている。それによる焦りが、よりウツを加速させている。

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2021-07-23

(今回長い。7/13-7/19の記録)

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▼7/13
*めあと厄介ファン
https://twitter.com/ai_kusaka/status/1414662440336302102

・妄想的な暴走を止める方法って適切な社会的関係しかないと思うのだけど、そういう関係が誰しも持てるわけではない……世知辛いね
【7/23追記:この呟きは、明確に京アニ事件を踏まえて言っている。妄想に一番良いのは、客観的な視点であろう。それを失ってしまうとブレーキが効かなくなり、大変な事件に繋がることもある。】

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▼以下、7/14未明のメモ

*簿記勉強へのモチベーションが落ちてきた。もともと道楽みたいな部分があったので、しょうがない。動機としては「とりあえず手に職付けたい」的なもので、緩くはあった。そしてこのモチベーション低下は、以前示した気分の流れでいう「ひとつのことがんばる期」の終わりを感じる。
そもそも、①のマルチタスク状態を避けつつ生きてはいるのだが、ちょっと色々やっちゃってはいるので、若干②に入ってるとも言えよう。そうしたら、また精神の危機が訪れるのだろうか。やだな~。

*全世界の「無職」についてもっと調べた方が、自分の立場が相対化できていいのかも、とも思った。実はあまり文献を調べたことがない……、のでちょっと調べてみよう。
『ミッシングワーカーの衝撃』
『独身・無職者のリアル』
上記の文献が、一応マシっぽいもの。検索ワードの問題はあると思うが、ciniiで目ぼしいものがヒットしなかったのは意外だった。
そもそも、僕は一応無職ではないし、悩んでいるポイントの絞り方が甘いんじゃないか、とも思えてきた。

*①特別な働く理由が見つからない(働く理由が欲しい)、仮に働けたとしても、②長く残業できない(長く働くつもりもない)、③のちの人生に役立つ仕事が良い(他にも応用がきく仕事)。
この3つの条件に合うような都合の良い仕事がない、ということが問題なのであって、ぶっちゃけ社会における「無職」の立ち位置とかはどうでも良いのだと思う。
と考えると、やはり最初に解決すべきは①のような気がしてきた。

*前職の場合は「会社員というコミュニティに参与観察しよう」という、明確なモチベーションがあった。ただ、1年も働けば大体のことはわかる。次はより狭い範囲をターゲットにすれば良いのだろうか。しかし、特に知りたいコミュニティはない。例外的に、大雑把に言ってクリエイター業の裏方などへの興味はあるが、激務が予想され、行く気になれない。あとは経営企画、プロデューサーといった仕事だが、こうした仕事と残業は切っても切れないだろう(探してはみるが)。

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▼7/16ツイート

・ぼくがVを見続ける理由、もっと単純なものとして20-30代の男の(普通の)声や顔をみたくも聴きたくもない、というアホみたいなジェンダーバイアスがあると思う
むろん友達とか「好き」のカテゴリーに入ってる男性は別だけど

・この話、某tmr先輩とむかし電車内で語り、めちゃくちゃお互い共感した気がする。彼は男子校だったのでそういう面があったと自称していた
鬼のようなコミュ強なので、僕に合わせて話していた可能性も高いが

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▼7/18ツイート

・残業時間の上限決めてえな~、と思い、4-10月が10h・11-2月が40hで年間230hと考えたら月19.2hしか残業してないことになり、恐ろしくなった
というか労働商品としての僕のコスパ悪すぎィ……平均19.2/月以上の残業すると心を壊しますのでご注意ください

・だから求人で良くある、月20h残業というのは無理なんだな、となっている。現実的なラインとして上限月15時間か。
あと、これは「完全に自分にとって無益な仕事」カテゴリーに入った場合の話だから、有益と思えれば違うのかもしれん(望み薄だが)

・まあ普通に働きながらも労働を忌避してる時点で、精神衛生上悪いのは当然として、労働商品としても使い勝手が悪いということになる、残念!
(ここで「労働商品として有益なみなさ~ん」とか言いながら手を振る皮肉を思い付くが、普通に集団リンチされて海に棄てられそう)

・みんな様々な信念をもって頑張ってるんだよ、だから悪し様に言う必要はない
僕は社会において価値がないと言うよりはむしろあるんだけど、普通に社会が嫌いすぎるんだよな、シンプルに言えば。

・結局は、職場で堂々と悪態を付き大声でわめき、歌い躍り騒ぎ、YouTube付けまくり、ゲームしまくり、といった職場なら楽しいと思うんだよな。社会に気を使うことで病んでる面も大いにあるし
結局話はビューティフルドリーマーのアレに帰っていきそうだけど

・あと「社会人」というカテゴリーに自ら没入していく人のつまらなさ!これはガチでつまらん場合と、厚い仮面をかぶっている場合と二つあると思うが、とりあえず前者のキツさったらないな

・自分をアピールできる転職サイトみたいなところに登録して、物好きな人に拾ってもらうやつとかはどうなんだろうか。ちょっと調べてみるか……(面倒くさい)

・1時間半くらい見てたけどピンキリっぽいな。少し知識は増えた。でも別に働く気が起きるわけではないんだよな(むしろどちらかと言えば暗澹たる気持ちになる)
まあすべては僕が甘ったれた人間だから悪いわね、という感じになるな、ほんとに

・エンジニアとかになるか……なども思うけど、勉強して思ったけどあんまり好きじゃないし向いてもないんだよな。たぶんバイナリとかwebセキュリティとかリバースエンジニアリングとか好きだと思うんだけど、コード書くのとかはそれほど好きくないのかも(何もわからん、ctfが好きそう位しかわからん)

atcoderやって基礎力高めつつ、主戦場はctfで、実用としてkaggleをやるみたいのが理想だけど、そんなの余裕でキャパオーバーよ
あと普通に気質的にはPMとか好きそうだけどね。勉強めんどいね

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▼7/19ツイート

藤本タツキ『ルックバック』読んだ。おもれ~しゅげ~って感じ。物語構成がパキパキし過ぎてるので、そこが苦手な人は苦手なのかも。

・斧の男があまりにも唐突に出てくるところは、もうしょうがないというか、我々の日常に火災が映し出されたのも津波がすべてを飲み込んでいったのも唐突だったし、という諦めさえある

・というか考えてみればけっこう『サクラノ詩』の某√に似てるな、という感じ。あいつも鬼のように唐突に死ぬもんな……

・TLをみると、登場人物やテーマに対する感情移入や自分への重ね合わせが行われてるけど、あんまりピンと来ないんだよな
むしろ斧の男に自分がいつかなるんじゃないか、という怯えのほうがある(僕には社会的関係が十分あるので、あり得ないが)

・だから物語としては、斧の男に視点を向けたもののほうが感情移入できると思う。おそらく恐ろしく平凡で不幸な人生(もしかしたら病的な人生)が描かれるだろう。それは全く劇的ではない(リアルかもしれないが)

・そういった危険な視点を排除したところにルックバックは成り立っており、典型的な努力の物語+美しき悲劇(宿命に立ち向かう人間の姿)として読むことができる
あまりに皮肉な見方かもしれんが、こういう感じよね

2021-07-11

【7/11追記。

・メモ、続きが書かれないままに死蔵されがち。ならば公開できるものに関しては、インターネット上に保存しておこう的なモチベーション、ある。えらい。
それにしても6月はたくさんメモしたな。この書庫的ブログを開設するにあたって、ここなら書けそうなネタをメモしてたらけっこうな量になってきた。まあ、人生考える上で役立つものが多くてよろしいんですけれども。いわば自分の人生の攻略本を作っているに等しいからな、これ。そういう意味でこの6月はけっこう実りある月だったと思う(簿記とか受けたという意味でも)。表面上には現れないけれども、内面は着実に前進していると思う。非常に良いことだ。】

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▼以下、2021-06-24までのメモ

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・簿記3級に落ちた記録

*簿記3級に4点足らず落ちた(合格は70点。僕は66点)。しにて~。
僕はいつからこんな無能力者になったのだろう。一応国公立の大学いってたんだけどな……。まあ、高校も大学もTHE落ちこぼれだったけど。吐きたくなってきた。

*試験内容に大きな変更があることに、試験を受け始めるまで知らなかった。とはいえ、基本的には過去問の組み合わせなので、パターンに対する回答を整理して丸覚えすればいけるはず。というか、試験時間が短すぎて丸暗記していないと対応できない。そういう意味では勉強量が足りなかったとも言える。
試験前、時間があると思っていたので(よくわからないうちに、試験時間は1/2になったわけだが)、じっくり考えればちゃんと答えられる、という自信はあったが、必要なのはそれではなく、出題しうるパターンはすべて暗記している、という自信だった。なので、仕訳がどうたら(会計学的な考え方を試す)、というよりはパターンと解法の暗記量を試されるものになっていた。クソ。
つまり、一生懸命(でも楽しく)会計学の本を読んでいたって何の益もないということ。クソ。

*あと、出題された問題などは配布されないため、復習もできない。もちろん(?)、正誤結果も出力されないため(出力されるのは点数と合否のみ)、何がわかんなかったのかもわからん。クソ。マジで復習くらいはさせてくれても良いんじゃないか?バカ過ぎる。
おそらく、過去問をすべてやりきり、パターンにまとめて暗記するのが最もはやい勉強法なのだろう。クソダルい。会計学の本を読んで、内容をまとめていった方が100倍楽しいんだけどな……(しかもそっちの方が有意義じゃないか?)。本当にクソ。

*もう血迷って2級の勉強しようかな。そっちが良い気がしてきた(錯乱)。なんてったって一桁目を四捨五入したら合格だもんね。クソ。

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・人生どうするんだ期、精神としては安定しているので割りと安心した日々を過ごしている。ただ妄想がはかどってしまうのが良くない気がする。あとめっちゃボーッとしている。まあ、それで良いのだけど(治癒的な時間なので)。

・なんか「起業してえな~」みたいな、なんの考えもない想いがある。なにしたいの?と問われても特にない。終わってる。これは僕が肝心な営業活動に間接的にしか絡んでいない(バックオフィスをやり続けてきた)ことにもよる。

・いま気になってるのは配信業まわりの仕事だが、配信業が博打の側面がある以上、安定性などは考えにくい。芸能事務所などが先行するビジネスモデルだと思うが、特殊なコネがないと継続した利益をあげづらいだろう。たとえば、くりぃむしちゅーのマネージャー大橋は、くりぃむの二人からは「ババア」と揶揄されているものの、偉い人と飲みに行きまくっているなど、コネの形成が上手い人なんだと思う。自分にはとてもできない。

・配信業はむしろ、本業に対するサブの役割として、かなり優秀なのでは、と思う。広報、広告塔としての強みを活かすことができる(いわば、配信者から見れば、箱内部の企業案件)。最初からサブであることを明示していれば、収益を多く取る必要もない(ライバーへの還元率を上げる)。回収した収益は、さらなる広報に充てることも可能だろう。

・僕が一番よく知ってるのは「本」のことだろう。そのため、業種としては本屋や古本屋が思い浮かぶ。システム面でも、本屋同士の関係性の面でも遅れを取っているため、かなりユニークな売り方を研究しないといけないだろう。
(ユニークな国の本など。たとえば、インドネシア学術書。文脈をよく理解できる見取り図も用意すべきかもしれない。)
(自分は場所取りなどに専念し、企画の中身はスペシャルな人に考えてもらうなど。美術関係の仕組みを参照できるのでは。)
あと、いわゆるワナビやくすぶってる批評家などを上手いこと救済できる仕組みは作れないだろうか、と思う。

・その他、音楽とゲームが考えられる。

・こういった妄想をしたあとに、起業失敗エピソードを読むことで「酔い」を冷ましてみる。
https://y-ta.net/secondhand-bookstore-1/

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自分じゃない過去の自分と対面する夢。別の世界で生きていた(別の人生を送ってきた)はずの自分と、自分じゃない自分の部屋を介して対話する。本棚の中身はなつかしいものが多い(ジャンプの付録?など。本棚を開けると、付録が落ちたため、手で束ねて本棚に突っ込む)。誰かの弟であったかのように、部屋が配置されている。部屋自体は乱雑で汚い。ばかにデカイ家。
時間に追われていて、内心焦っている。部屋を出ると自分の服が寝巻きであることに気付き、あわてて寝室?(上の自分の部屋でない部屋)で服を着替え、外に出ていく

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チラシの裏だし何書いても良いだろ、ってことで棚卸の仕訳についてメモっとこう。
①どっかの帳簿の資産欄から「繰越商品」を発見する。これは、前期の残り商品を今期に持ち越したもの。これを右に書いて、打ち消す。
②そしたら左に仕入を書く。これで今期の仕入れ高に前期の残り商品が入ったことになる。ここまでで「しーくり」。資産が減り、費用が増えた。
③問題文とかに「期末商品棚卸高」があるはず。これは次期に持ち越したい今期の残り商品。仕入を右に書くことで、今期の仕入れの取引全体から、

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・主夫が最も生きやすいのでは、と思っているが、どうなのだろう。人のための家事ならやる気になるぞ僕は。外っ面を良くしたいからね。そこまで言わずとも、客観性がある状態のほうが良く生きれるという傾向はあると思う。一人のとき、ずーっとビューティフル・ドリーマー夢見状態になるからな。

・この部屋、そして蔵書どうするんだろう。マジでどうすれば良いかわからん。富豪だったら問題ないのだが、富豪じゃないので問題は山積みすぎる。
あと不動産の知識を付けとかないと、相続とかで大変そうなんだよな……。

・契約書、請求書、経理、総務などまんべんなくやったので、小さい会社の事務なら回せるような気がする。