2021-06-14

・「人生どうしよう期」が訪れているね。こうなると、なんかやりたいことが無くなって、ぼんやりとした状態が続く。TwitterYouTubeも興味あるものが無くなると、天井をぼーっと見上げている時間になる、という風な状態。

いまの予想だと、接続状態がめちゃくちゃいやになり、切断を繰り返すと次第にヒマになってくる(時間的にも精神的にも)。この「ヒマ」を、「人生どうしよう」で埋めている気がする。自分のなかのサイクルがちょっとずつわかってきている。概略は以下の通り。

①「なんでもやりたい期」:とにかく接続を求める。情報を集めることを好み、「全知」とか言い出すのはこのタイミング。行動的で、毎日が忙しく感じる(実際、こなす量が多いので忙しくはある)。精神的にはタフで鈍感になり、情報の歪みを気にしない。全能感と楽観視。
②「もう疲れた期」:上記の忙しさや接続状態に疲れ、ストレスがマッハになる状態。人に会いたくなくなる。情報の歪みに神経質になり、相当整えられた情報でない限り、情報の獲得にストレスを感じる。そのため切断を開始し、人間関係や情報収集をやめる(引きこもる)。単純に、①への「飽き」もある。精神的危機。
③「人生どうしよう期」:②によってやることが少なくなり、日常のルーティーンだけになると、気持ちが暇になってくる。そして「これからの人生どうしよう」という気持ちになり、色々調べたりし始める(仕事・資格・投資……etc)。多くの場合、何かしらのやりたいことを見出だし、努力をはじめる。精神的安定。
④「ひとつのことがんばる期」:③で決めたやりたいことを、多くの時間を使って頑張ろうとする時期。ただし、長続きはせず、さまざまなコンテンツへ逃避を開始する(目移りしていく)。その結果、興味が分散し、①の状態へ変化していく。

・けっこう綺麗に整理できた気がする。全然解決には繋がらない(即効性はない)が、自分の精神を客観的に観察するためにも、必要なことだろう。
*①と②の解離が、社会的には本当にひどいと思う。たとえば、①のときに交わした約束は、②の状態の期間に入ってしまうと、ドタキャンになってしまう。①の僕と②の僕は別人のようであるため、他の人から見ると困惑するだろう。そのため、遠くの期日の約束はしないほうが良く、急に会うパターンなどのほうが正しい判断ができる。
*②と④はどちらも外に閉じているが、②は後ろ向きで、④は前向きに閉じている。④のほうが柔軟であり、融通がきく(④に問題が生じたら、①に移行すれば良いから)。
*分裂病的な人格の変化はない(小学生の頃はあったと思う。頭のなかで複数の自分が話すという光景は、普通のことであった)。①の末期には、被害妄想がひどくなることがあり、②はけっこう辛い期間になる。こういったあり方は分裂的かと思う。
*こういった「波がある」ということが、躁鬱と親和的だと思う。とはいえ、完全な社会的活動の停止に至ったことがないことを踏まえると、精神科にかかるようなものではない、ともいえる。

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・なんかちょっと前までは「どう広がるべきか」とか考えていたが、非常に個人的ながら一切注目もされず文章を書いていると、何にもとらわれず書くことの重要さに依存してきて、「どう広がるべきか」という考え方事態の欺瞞っぽさばかりが目につくようになる。
(ちなみにこれは、単なる羨望・ひねくれ・怨恨といった感情をちょっとそれっぽいオブラートで包んだものでしかない。)
「どう広がるべきか」ということについて考える文章が広がっていること、つまりある程度の称賛や同意を得ていることについて、注意深くなるべきだろう。

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▼睡眠についての小まとめ
(なんかまとめたらめちゃ短くなってびびってる。どれだけ冗長な言葉で構成されているのだ、あの文章は……。)

★キーワード
・「寝るのがもったいないタイム」

①気絶法
*wikipedia青空文庫を読む
*ハングルのタイピングをする
*一心不乱に文字を書く(いまここ)
*資格などの勉強をする

②ながら寝
*電車の音
*VTuber等の雑談や声優ラジオ

・ふつう寝。ふつうに寝ようとすること。仕事やってたときは、気絶的ではあったものの、かなり自然に寝ていた。まあ、平日の平均睡眠時間5時間くらいだった気もするし、そんな生活してたら気も病んでしまうよ。起きなきゃいけない用事がある場合などは、ギリギリまで好きなことをして、ふつう寝をしている気がする。早起きが続く生活だと自然にふつう寝になっていく。気絶やながらをする体力がないので。そう思うと、結局体力が残っているからこそ寝れないのでは?という気にもなってくる。ジムとか行くと良いのだろうけど、ハッキリ言ってクソダルいのでやりたくないな~、という感じ。

・いま毎日散歩と本当にちょびっとジョギングをしているのだが、夏本番になれば当然外も歩けなくなる。そうしたときのために、室内で筋トレする習慣をつけねばなのだが、マジでだるいんだよなあ。筋トレ、なにも嬉しくない。嬉しくないから、走っていたのに(筋トレよりも歩いたり走ったりのほうが好き)。だるい……。

・あとはストレッチ法。昔は筋トレしてた頃もあったが。ストレッチすることで血流がよくなった気がして、寝に入りやすくなる、というもの。主観的には、やはり肉体的疲労のほうが良い睡眠をもたらすので、ちょっとだけ睡眠の質が良くなる気がする。睡眠時無呼吸の症状が軽減されるという意味もあると思う。

・そしてついに、アイマスクが導入されたので使ってみている。強制シャットダウンという感じなので、理論値的に寝れるぞ、というタイミングで使うとちょうどよい感じ……かも。決まった時間でアイマスクを被るようにすれば、生活リズムも改善されるかも?

 

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▼06-11ツイートメモ
・寝れねえから久しぶりににじアンとかほっつきまわってたけど、意外と平和だった。火種が外にあるからなんやろなあ
でもスピード感は早く、にじアンの定着率すごいんだろな~と思った
・なぜ人々がアンチスレに流れるかというと、本質や構造や形式や美学を理解できない、あるいは理解を拒否してるからなんだよな。だから文脈しか見なくなる
しかも、文脈情報の中でも最も感情の動きが激しいものを主に扱おうとする。手軽に感情を爆発させたいんだね。ギャンブルと似ているね
・あと、アンチスレは数字しかみない(みれない、頑なに見ようとしない)。数字は誰でも理解できるから、数字で比較しようとする(それこそが数字に対する間違った理解なのだけど)
アンチスレの良いところは視点を相対化できることなのだけど、にじアンくらい年季の入ったアンチスレにはそういった機能はない。楠アンスレも同様に。ここら辺は掲示板の宿命かと思う。みんな「心地よい物語」を選択的に受け入れていく

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▼06-12ツイートメモ
・自分のなかにも「あえて不快になりたい」という感情、あることを最近自覚している。たぶん何らかの強い刺激を求めてのことなんだろう
インターネットの文章によく釣られるわけだが、これはたぶん無料だからだと思う。クソ本は買わないが、クソ文章は読んでしまうね
・この垢では特にそういうことはないのだが、あんず垢では「このひとのツイート見に行ったら十中八九不快になるな~」と思いつつ見に行ってしまうパターンがけっこうあるね
・不快と言っても、露骨な悪に触れるというわけではなくて、抽象的な言辞を振り回したり、文脈が不明な言葉が浮遊していたりといった、客観的な世界(世論?)と自分の主観的認識の解離に苦しむ、といった不快だと思う
・要するに「なんでこれがバズる?」「なんでこの言葉にみんな反応してるんだ?」といった疑問がめちゃめちゃ浮かぶんだよな
ハッキリ言って、インターネット上のひとつひとつの言動にすべて意味があるわけなく、僕の誇大な妄想に過ぎないのだけどね
・いつ見ても僕のいいね欄やリツイート欄は貧相で、ひとと共感したり分かち合いたいという気概が全く感じられないのよな。あとツイッターにはメモ機能も期待していないので、気になるものは別のメモに保存してあり、記録としての機能を失っている